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「50歳から始めた偉大な挑戦」
先日、ある会合に出席した。
その会合の出席者の1人が言った。
「もう年だ」
どうやら、やりたいことはあるが、そんな勝負をする歳ではないというようなことを話していた。
そう感じる気持ちは理解できる。
私も反論はしなかった。
でも、私の本心は「もったいない」と思っていた。
彼はまだ30代
「もう年」などと言っている年齢ではない。
「もう、あきらめてしまうのか」と思ってしまう。
私は自分が生きている限り、挑戦しつづけたいと思う。
そう思う理由の1つが
「伊能忠敬」だ
以前もこのブログで伊能忠敬のことに触れたことはあるが、
今回は彼のことを説明していきたい。
(自分の中でも大変重要な人物だ。自分のためにも彼の人生を少し振り返りたいと思う)
彼はご存じのとおり、正確な日本地図を作った最初の人物
その地図の誤差は現在計測された地図の数値と0.1%程度のものだったと言う。
だが、私が凄いと思うのはそこではない。
平均寿命が30~40代であった江戸時代
彼が測量技術(最初は天文学)を学び始めたのは50歳
しかも、彼はそれまで測量とは全く無関係の商人だったにもかかわらず、50歳から挑戦した。
彼は事業を長男に譲り、
天文学を学ぶため、天文方歴局の天文学の第一人者である高橋至時の門下生になる。
当時、師である高橋は32歳。彼は51歳だ。
商人の時は人を使う立場だった伊能が20歳も年下の高橋の弟子となるのは大変なことだったと思う。
そして、彼は昼夜を問わず猛烈に勉強を始める。
当時、天文方歴局の課題は「地球の直径の測定」
オランダの書物などから「地球が丸い」ということは分かっていたが、直径、大きさが分からなかったのだ。
それを彼は
「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」
「この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる」
と提案した。
それを師である高橋と考えた。
「江戸から遠い蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうか」と。
でも、問題があった。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要だった。
自由に行くことなど出来なかったのだ。
その許可を得るための方法が「地図を作る」という名目だった。
これが彼が地図を作った理由だったのだ。
幕府にもその許可を与える理由があった。
幕府に国防のための正確な地図はなかったのだ。
そこで、幕府は蝦夷地を含め、東日本全体の測量の許可を与えた。
そして、1800年、彼は測量をスタートする
スタートすると言っても、その測量は厳しいものだった。
そもそも、馬に乗って測量するわけではない。
歩くのだ。
その測量は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を算出し、距離を計算するというもの。
天候の問題もある。
しかも、道がない場所も多い。
雨や風や雪などに屈することなく、海岸線の危険な場所も歩き続けたのだ。
昼は測量、夜は天体観測。
それらを比較しながら、誤差を修正し、集計する。
それを毎日のような行っていった。
師である高橋は彼を手紙で励ました。
「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。
あなたの一身は天下の暦学の盛衰にかかわっているのです」
彼は3年間をかけて東日本の測量を終えた
その後、本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。
その算出結果は現在分かっている「地球の外周」と千分の1の誤差しかない正確なものだったということだ。
だが、その喜びの中、師である高橋は無理を重ねてきたこともあり、翌年39歳に永眠する。
11代将軍家斉に東日本の地図を披露
そのあまりの緻密さに、幕閣も驚いた。
そして、伊能に「東日本だけではなく、九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ」という幕命が下った。
伊能忠敬の測量はもはや個人の仕事ではなかった。
国家事業に変わったのだ。
この西日本の測量は過酷だった。
当時、伊能忠敬が娘に出した手紙には
「歯は殆ど抜け落ち1本になってしまった。もう、奈良漬も食べることができない」
と書かれていた。
しかも、相棒だった測量隊の副隊長がチフスで亡くなった。
だが、彼はやり抜き、1815年2月19日、最終測量地点の東京・八丁堀で、伊能は全ての測量を終えた。
彼は70歳だ。
彼が15年以上歩いた距離は4万キロ。
地球を一周したことになる。
その後の作業は各地の地図を一枚につなぎ合わせるだけだ。
地球は丸い。
そのため、それを平面に移す時の誤差を修正する段階に入った。
しかし、彼は肺を患い、1818年73歳で亡くなる。
弟子たちは「この地図は伊能忠敬が作ったもの」と世間に知らしめるために彼の死を伏せて地図の完成に励んだ。
そして、1821年、江戸上大広間。
幕府の重鎮が見守る中、日本最初の実測地図である「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。
これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。
伊能忠敬の遺言
「私が大事を成し遂げられたのは、(高橋)至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」
その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、今も恩師のそばで過ごしている。
その墓地の側面にはこう彫られている。
「忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った」と。
200年前の道など、無いに等しかっただろう。
その道を彼は4万キロも歩いた。
ずっと歩き続けたのだ。
伊能忠敬のことを思う度、何歳になっても、その可能性を追求する大切を考えさせられる。
そう言っている私が伊能忠敬のように生きられるかは分からないが、彼のような姿勢で生きていきたいと思う。
そう考えると、30や40代など「何も始まっていない」と感じてしまうのだ。
まだまだ、安定などせずに、泥まみれになるように挑戦し続ける時期だと思ってしまう。
※参考(主要):Wikipedia、伊能忠敬記念館、NHK「その時歴史が動いた」
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