老子との対話 37
あなたはどうか分からないけど、僕は果物が好きだ。
考えてみると、子供の時は違った。
何か口寂しい感じがして、林檎などよりも蜜柑などの方がよほど美味しく感じていた。
でも、今はスーパーなどで林檎を見る度に欲しくなってしまう。
その林檎だけど、やはり美味しいのは旬の時期。ただ、その旬の時期が曲者だ。
林檎の旬の時期は品種によってかなり違う。
そのため、スーパーで林檎の前に立ち、iPhoneで旬の時期を確認して買っていたりする。
考えてみると、かなり怪しい。
林檎を美味しく食べるにはやはり丸かじりだ。
外国人がよくやっているだろう。彼らは街中で林檎をかじりながら歩いていたりする。
あの食べ方が実際に美味しい。
もちろん、「農薬が気になる」という人もいると思うが、一度で良いから試してほしい。
2、3回やってしまうと、病みつきになってくる。
包丁でカットしたものよりも素材そのものの味が口の中に広がる。
ジュワッとだ。半端なく美味しい。
今では、カットした林檎は林檎という感じがしない。
カットした林檎を「はい、どうぞ」と出されても、頭の中で「丸かじりしたいな」と思ってしまう。
料理人の方の話に注目していると、彼らの多くは「素材の魅力を最大限活かしたい」というような言い方をする。
いや、料理人だけじゃない。建築家なども同じだ。
「建築の材料自体の魅力を活かしたい」というようなことを言う。
林檎は林檎で食べた方が良い。
変に加工して、林檎のお菓子などにしてしまうより、よほど美味しい。それは容易に想像できると思う。
さて、真面目な話だ。
突然だけど、あなたに質問だ。
「成功者を参考にすることは良いのか悪いのか?」
あなたはどう思うだろうか?
ある特定の成功者を参考にすることは良いことか、悪いことか?
結論から言えば、その成功者そのものになろうとするのは良くはない。
成功者を参考にするのだ。
成功者そのものになろうとすること。
それは先程の林檎で言えば、林檎自体の美味しさを捨て、別のものになろうとする努力だ。
例えば、林檎を加工してスナック菓子にするようなこと。それはそれで美味しいだろうが、やはり林檎自体がもつ素材を活かすものには勝てない。
成功者そのものになろうとするのではない。
そうではなく、成功者を参考にする。
その技術などをマスターするためにも真似ることは非常に良いことだ。
守破離だ
まずは守る。
師(この場合であればその成功者)となる人の流儀などを真似、その流儀を「守る」ことだ。
次に破る。その流儀を「破る」ことだ。応用するようなイメージだ。
最後に離れる。そこから「離れる」。自分独自の流儀を築くことだ。
ここで注意してほしいのは、スタートは「師」だけど、最終的には「自分」独自の流儀と自分に帰ることになる。
僕らは先人の方の技術などを手に入れ、自分自身を輝かせる。
「誰か」ではなく、「自分」になるのだ。
何か別のものに変わるのでなく、自分本来の姿になる。
それが重要だ。
これはありとあらゆるものに共通する考えだ。
一流の料理、一流の建築だけではない。
多くのケースで最終的にはそのモノ、その人本来の魅力、本来の自然を輝かせることを最高なのだ。
最後に老子の言葉をお伝えしたい。
「りっぱな家玉のようなありかたも、つまらない石ころのようなありかたも、どちらも望むことではない。根源の『一(道)』を獲得してそこに落ち着くことだ」
参考:老子 道徳経下篇
「一」とは「道」のこと。
分かりやすく言えば「自然」のことだ。
自分自身の根にある「自然」。
自分本来の魅力を獲得してそこに落ち着くこと。
それが僕たちが望むべきことだ。


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