老子との対話 34
数日前
数日前、大学時代の友人と新年会で集まった。とても楽しい時間を過ごした。
こういう形で集まるのも、もう何度目だろうか?
大学時代から考えると、かなり長い期間、彼らと過ごしてきた。
皆、環境は変わった。
仕事が変わったり、家族を持っていたり、学生の時とは全く違う状況だ。やることもなく、学食でバカ話をしていた時期とは違う。
でも、不思議だ。
皆で集まると、あの時と同じになる。
それぞれが大学時代の時のそれぞれになる。
それぞれの自分になる。
普段、僕は自然体でいることが意識している。
変に格好をつけることなく、自分の本質的な部分で人と接し、時間を過ごす。
自分とは違う、別の誰かを演じたりすることもない。
仕事も自分らしくする。それを意識している。
それでも、彼らといるとそれ以上の「自然体」になる。
自然体だからこそ、居心地が良い。
居心地が良いからこそ、長い間集まることができるのだろう。
それに自然体だからこそ、彼ら自身の本質的な魅力を放ち、非常に魅力的になる。
まあ、そんな堅苦しいことは彼らの前では言わない。でも、本当にそう思う。
では、自然体とは何か?
「自分」であるということだ。
もっと言えば、自分の考えと行動が相反する状態にないことだ。
「考え」と「行動」が違う。
それはよくあることだろう。
自分が嫌いな相手に笑顔を振りまくなど、まさにそれだ。
もちろん、それをやらねばならないこともある。でも、自分でコントロールできる場面でそれをやってしまうことも少なくない。
考えと行動が違う人は明らかに輝きが失せる。考えと行動が一致している人には勝てない。
上海で仕事をしているある女性がいる。
彼女はその仕事を愛していた。
もちろん、お客に嫌な人がいることもあるだろう。
それでも、それ以上に仕事を愛していた。
基本的に考えと行動が一致しているのだ。
だからこそ、その輝きによって、お客が次々と魅了されていった。人が彼女の周りに集まるのだ。
老子は言う。
「偉大な象(かたち)ーそれは形象をこえた象としての「道」であるがーそれをしっかり掌握しているものには、世界じゅうのものがそこへ集まっていく。
(中略)
『道』のことが言葉として表現されたときには、まったく淡白で味もそっけもないから、だれも気がつかない。(中略)その働きは大きくて、いくら用いても用いつくせるものではないのだ。」
参考:老子道徳経 上篇 -「老子」講談社
お笑い芸人
この老子の言葉を聞いて、僕がすぐに思い浮かべるのはお笑い芸人だ。
奇をてらった芸をする芸人。
彼らも一時的には人気が出ることがある。
でも、それは本質から外れたものだ。
もっと言えば、彼ら自身の魅力ではないし、自然ではない。
それを続けていくのはきつい。
疲れるだろうし、長く続きはしない。
自分じゃない他人を演じていくほど疲れることはない。
逆に本当に一流の人は「自分」だ。
自分ではない他人を演じるのではなく、自分の自然を何らかの形で活かすのだ。
過去にプライベートの明石家さんまと一度だけ見かけたことがある。とても、明るい方でテレビで見る「さんま」のまんまだった。
僕は明石家さんまと知り合いでも何でもないので、本当のことはよく知らない。
でも、さんまの周りの芸能人仲間が話す内容を聞いていても、あのまんまのようだ。
朝から晩まで話し続けている。
あのまんまだ。
もちろん、「自然」であれば何でも良いというわけではない。技術や経験も必要だろう。
でも、自分の本質、自分の自然に反することはしないというのは非常に重要だ。
ビジネスも同じだ。
iPhoneだってそうだ
シンプルで無駄がなく、奇をてらったものではない。
アップルの強みである「デザイン」
アップルで人気だった「iPod」「iTunes」などを自然に活用している。
自然で無理がないからこそ、アップルはそのビジネスを継続していける。
自然だからこそ、無理がなく、僕らにその商品が浸透する。奇をてらうことなく自然にだ。
その自然の働きは大きくて、いくら用いても用いつくせるものではないのだ。


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